蕭 昭文(しょう しょうぶん)は、南朝斉(南斉)の第4代皇帝。第2代皇帝武帝の孫。南朝斉の3人の廃帝の一人で諡号や廟号はなく、廃位後の王号から海陵王と史称される。
生涯
皇太子蕭長懋の次男として生まれる。永明4年(486年)、臨汝公に封じられた。輔国将軍・済陽郡太守となった。永明10年(492年)、南豫州刺史として出向した。永明11年(493年)、冠軍将軍に進んだ。父が死去すると、建康に帰った。兄の蕭昭業が即位すると、蕭昭文は中軍将軍となり、新安王に封じられた。
隆昌元年(494年)、揚州刺史となった。7月、蕭昭業が廃位(殺害)されたことにより、西昌侯蕭鸞(後の明帝)により帝位につけられた。しかし政治の実権は蕭鸞が執っており、蕭鸞の許可無しでは皇帝は食事の献立すら自由にできなかった。同年(延興元年)10月、蕭昭文は蕭鸞が手を回した皇太后王宝明(嫡母)の詔により廃位され、海陵王に落とされた。その後継としては蕭鸞が自ら即位して明帝となった。
翌月、蕭昭文は明帝の命によって殺害された。



